こんにちはミライです。
最近歴史書を読む機会も多くあり、その中での疑問の「何で日本の武士は盾(タテ)を持っていないのかな?」って感じた為、思い付きでの投稿になりますが、ご説明いたします。
実は盾を使っていた?
実は紀元前3世紀頃(弥生時代)から盾は開発されてました。木で作った単純な盾でしたが思ったより早く使用が開始されました。それから戦や祭りごと等で進化を重ね、発展の仕方が大きく2つに分かれていきました。
1つは片手用の小型の持盾(もちたて)。これは戦闘時に使うものでしたが、軽量の木製、後に皮を貼ったタイプへ進化し、古墳時代には、鉄製の盾も開発されましたが、それ以上の進化もなく、そこまで使用もされませんでした。
2つ目は自陣の周辺に置く置盾(おきたて)です。これは自軍の周辺や、突撃の最前線などに設置され、主に弓矢を防ぐタイプの大型の物へ進化を進み、木製から竹へと素材とも変化を行っていきます。
何で盾を使わなかったのか?
上記のように折角、開発した盾ですが時代が進むにつれて置盾(おきたて)しか戦場で活躍しませんでした。ここでは3つの要因について解説していきます。
馬に乗っていた為
馬を戦争に利用していきました。馬の機動力を利用しての戦い方は今までと以上の武力向上と戦略を生みました。しかしそのおかげで、馬を操るための手綱(たづな)を持たなければなりませんでした。
武器も、剣→弓→槍へと進化し、両手を使う武器が多く開発された影響もあります。手綱と弓矢で、接近戦の場合は太刀で攻撃。片手盾を使用する機会は激減しました。しかし置盾(おきたて)は今まで通り自陣に設置し、矢を防ぎ、突進を防ぐ防具として戦場では欠かせないものへと昇華していきます。
鎧(ヨロイ)の進歩
盾の代わりに身を守る鎧(ヨロイ)が進化しました。
弥生時代からあった木製の鎧を強化して動きを阻害せずに、身を守る優れた鎧の開発を行いました。革製の鎧の軽量化や動きやすく硬い鎧の種類を増やし実践とともに進化を歩んできました。
白兵戦では両手で武器を使い、防御は鎧に任せるが王道になったのです。
大袖と言われる鎧が、突撃時に盾の代わりを行いました。武士の左右の肩にある四角い鎧部分ですね。海外との比較としてですが、日本人は鎖帷子(クサリカタビラ)などの技術が長けていましたが、ヨーロッパは少し遅れたのでしょう。しかし、ヨーロッパでも全身鎧が普及し始めると盾は持たなくなり、盾はセレモニーなどのお披露目用となり、実践では使う機会は少なかったのです。
日本人の初めて外国人と戦った元寇(ゲンコウ)でも攻撃に特化した日本軍は、中国の人々の脅威だったようです。攻撃のみを重点にした戦い方に狂気を覚えたと思います。鎌倉時代までの主力武器は弓矢(長弓)でした。サブの武器は両手剣だった為、盾は持てない状態です。戦国時代では、槍(ヤリ)が主力武器になりますので、これも両手用です。戦国時代後期では鉄砲が導入され、盾の存在意義が更に低くなってきました。
攻撃特化の日本独自の考え
日本の刀や槍は非常に強度が高く、重かったのです。海外に比べて、切れ味が高く、その為それを防ぐ盾は重く重厚なものでなければなりませんでした。しかし重たい盾を持って戦う事は機動性が落ちる為実際には使われない場合が多かったです。
また西洋と日本との文化の違いも理由にあげられます。
また西洋は集団戦、日本は白兵戦が主体であり、戦いに関しての考え方も違い、西洋は主に奴隷などで構成されていた為、白兵戦は避ける傾向にありましたが、日本は全員が命懸けで目的に向かい戦うので、個人戦に長けていました。ヨーロッパ以外でもアフリカ。インド、中近東、オセアニア、中国、東南アジア、新大陸 すべての刀剣はほとんど片手です。日本が特殊なのです。
昭和時代の大型大砲を備えた軍艦のヤマト、旋回性能重視の零戦の防御性能を考えても、日本の攻撃主体の考え方は根本的にあるものだと思います。
攻撃こそ最大の防御これこそ日本魂かもしれません。
あとがき
考察も加え、勝手に想像しましたが、こういう事を考えるのも凄く楽しいです。しかし、昔?はこんなに攻撃的だった日本人ですが、今は保守的な感じがすると思うのは私だけでしょうか?外交に対しての発言や行動です。確かに第2次世界大戦での敗戦国ではありますが、昔から歩んできた歴史を振り返ると大和魂が霞んでいるような気がします。
しかし、これからの日本を良くするのは私達国民です。国政が間違った方向に向かっていないかを確りと観察して参加意識を持ちよりよい日本を作りましょう!(最後の締めが適当だな(笑))
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